“国道36号線” にかかる “豊平橋” 沿岸に 2つ の碑が建立されていることをご存知ですか?
この2つの碑は “江戸時代” に “札幌に初めて住み着いた和人” の痕跡を記しています。
幕府は 1855年(安政2年)に 函館に奉行所をおき、石狩に “調役” を設けました。この調役の三代目 “荒井金助” により 2人の男 が “豊平川” の渡し守に命じられたことから、札幌の歴史が始まります。
今回は “札幌開祖” の一人 “志村鐵一(てついち)” ゆかりの地にたつ「札幌開祖 志村鐵一碑」をご紹介します。
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「札幌開祖 志村鐵一碑」はどこにあるの?
“志村鐵一碑” が建立されているのは、豊平川を横断する “国道36号線” にかかる “豊平橋” の東岸。
ホテル “プレミアホテル TSUBAKI 札幌” の “豊平川堤防” 沿いにあります。
札幌開祖 志村鐵一碑
【住 所】 北海道札幌市豊平区豊平4条1丁目1-1
【駐車場】 なし
「志村鐵一」っていったいどんな人?
“志村鐵一” は 信州(現在の長野県)の出身の剣客で、石狩調役 “荒井金助” の誘いを受け 蝦夷地へとやってきました。 その後 幕府から、当時 現在の5倍から10倍の水量のあった豊平川の “渡し守” を命じられ、豊平川の東岸に駅逓をかね住居をかまえたそうです。
当時の 札幌中心部 に定住した “和人” はまだおらず、これが “札幌開祖” と呼ばれる所以です。その後まもなく、豊平川の西岸には 同じく 渡し守 に命じられた “吉田茂八” が住居を構えました。
碑には 以上のことが記されています。以下にその全文を記載します。
碑文全文
札幌開祖 志村鐵一碑 由来の碑
氏は信州の剣客にて石狩調役荒井金助氏の招きに応じ安政六(一八五九)年には永住していた。幕命をうけて豊平川渡し守となり駅逓を兼ねる。この地より約百二十米川下が氏の住宅の遺跡なり。
この碑は大正十年当時の北海道庁河野常吉氏が発起人代表となりその場所に建立されたものであるが、新豊平橋完成にともない昭和四十二年七月に市が橋台小公園に移転安置せるものである。
尚この碑の筆跡は当時の北海道帝国大学総長 佐藤昌介氏の揮毫せるものである
昭和四十二年八月
札幌開祖志村鐵一碑顕彰保存会
平成二十九年十一月 碑文の一部を修正し新しく設置した。
碑の裏側にも 同様のことが記されていましたが、字体や経年により読みにくくなっていました。
“志村鐵一” は “足軽格二人扶持(1年間に2人分の生活費として米10俵の扶持米(ふちまい)支給を意味)。通行屋の番人、渡し守、豊平川の密猟取締りを任としていました。
渡し守の仕事については、“丸木舟” で 豊平川の両岸に張ったコクワ蔓を伝わって渡り、鐵一の子が主に行っていました。1871年(明治4年)に “豊平橋” がかかると “橋守” に任ぜられましたが、1875年(明治7年)10月5日に免職。その後の消息は不明なのだそうです。
さっぽろ・ふるさと文化百選のひとつ
「札幌開祖 志村鐵一碑」は “志村鐵一ゆかりの地” として “さっぽろ・ふるさと文化百選” に登録されています。
“さっぽろ・ふるさと文化百選” は「札幌市創建120年を記念し、北国の生活の息吹きと開拓の労苦を伝える身近な文化遺産を再発見し、市民自らの手でこれを守り、後世に伝えていくこと」が目的。
札幌市内の建物46件、遺跡26件、街並み19件、用具5件、まつり・行事など4件の計100点が選定されています。
「志村鐵一」の住居跡にも別の碑が立っています
「札幌開祖 志村鐵一碑」から 国道36号線を挟んだ 約170m 川下には 「札幌開祖 志村鉄一翁居住の地跡」の碑が建立されています。
歴史を深く感じるために、実際に現地に向かう際には あわせて立ち寄ることをおススメします。
札幌開祖 志村鐵一翁居住の地跡
【住 所】 北海道札幌市豊平区豊平3条1丁目
【駐車場】 なし
さいごに
“志村鐵一” については不明なことが多い様で、文献なども多くはなく、顔写真などももちろんありません。資料によって、赴任した年や、氏名などが異なる場合もある様です。
本記事では一般的に伝えられているとされる内容を記載していますが、正しい情報かどうかは見解が分かれるところ。
歴史に興味をもつ、きっかけとなっていただければ幸いです。
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